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訪問馬鞍山鐵礦場工程師小林隆之先生
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訪問馬鞍山鐵礦場工程師小林隆之先生

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訪問前馬鞍山礦場工程師小林隆之先生


訪問日期:2002 年 3 月 12 日

受訪者 :小林隆之先生(四建技術株式會社 地質調查業者技術管理者 調查部長)

訪問內容以日文版本為準

 

小林隆之先生,於 1958 至 1962 年由日本遠赴馬鞍山礦場擔任工程師。在被派駐馬鞍山工作的日本工程師當中,小林先生最令人留下深刻印象。時至今日,小林先生仍與昔日工作友好保持聯絡,情誼甚深。

 

更多資料:鞍山歲月-越洋工程師


 

請問你們所辦的公司是甚麼名字?你在甚麼時候來到香港?請你介紹一下當時的職務?

我們的公司名字是日鐵礦業株式會社。日鐵礦業株式會社是由一間在日本很有名氣的公司,名為新日鐵公司所分拆出來的,負責為新日鐵公司提供原料。小林先生於 1958 年來到香港。

 

 

請問你們的公司是在那個時候在香港開業?為甚麼選擇在香港開業呢?

我們的公司於 1953 年在香港開業,而技術人員則在 1954 年才來到香港。由於當時知道馬鞍山有鐵的礦石,所以便到此開始發掘工作。

 

戰後日本鐵的藏量很少,對於當時的日本而言,馬鞍山是一個十分重要的採礦源。日本以一萬噸運船進入吐露港,將從馬鞍山發掘出來的原料運到九州的八幡製鐵所(即今日的新日鐵)。

 

 

公司從那裏知道礦產的蘊含量?那時公司開礦的技術是怎樣的?

由於八幡製鐵所要求日鐵礦業株式會社繼續發掘,故日鐵礦業株式會社是從八幡製鐵所處知道馬鞍山的礦產蘊含量的。

 

由於馬鞍山與位於日本岩手縣太平洋附近的釜石礦山相似,所以釜石礦山的部分技術人員便調到馬鞍山從事發掘工作。故當時日鐵礦業株式會社的開礦技術,就是與八幡製鐵所在日本釜石礦山時的開採技術同出一徹的。

 

 

在東南亞地區礦產量而言,當時馬鞍山出產的數量是否很豐富?

小林先生認為在東南亞地區的礦產量而言,馬鞍山的礦量只屬中等。但是馬鞍山這個中等礦量的礦山,擁有著 100 萬噸礦石,這亦算是頗重要的。

 

 

公司有那幾位成員,可否舉出他們的名字?

當時員工的人數為:香港島所長一人,事務員一人,現場採礦礦工一人,工場一人。雖然偶爾會多僱一名員工,但原則上每次只僱用一人。由於公司的員工大概每隔兩年轉換一次,由是員工的數目很是龐大,要舉出他們的名字十分困難。

 

 

那時公司怎樣管理礦工,其組織編制是怎樣的?香港礦工與日本管理階層相處如何?

我們公司是與位於香港島的太公洋行共同合作開採礦石的。至於編制是設有礦山長、事務員,也有採礦部和工場。而在馬鞍山的山腳下,設有礦山長和事務員的辦公室;在山的中間,設有工場,亦即是選礦場,負責將鐵礦石的礦石含量提高(位置即於辦公室與採礦部的中間);而採礦部則位於山的上方,以便進行採礦。

 

從日鐵礦業株式會社派來採礦部及選礦部的技術人員,工作為期 2-4 年,而小林先生則在採礦部工作。由於當時沒有中國採礦技術人員,故日本技術人員便負責設計和統籌開礦工作,譬如說,決定何時於哪個位置開採礦石,策劃坑洞深多少米等。而中國的採礦工人則依從指示,進行採礦工作。換言之,日本技術人員的工作就類似顧問( Consultant )性質了。

 

 

據你所知那時馬鞍山礦工的生活是怎樣的?平日的生活如何?

由於從中國大陸來了很多人,當時香港是經歷著人口過密和貧困的時代。礦工平日的生活,雖有房屋居住,過著一般的生活,但諸如教育方面、交通方面,則頗為困難了。

 

現在來回沙田與馬鞍山,可經由陸路,但以前是完全沒有道路的貫通。大公洋行在沙田何東樓的附近,簡單的做了一個類似崗哨的地方,從那兒可以乘坐一艘能夠容納約 10 人的小船(可參看相片)到馬鞍山。但住在馬鞍山的小孩要到香港島上學可算是十分困難的。

 

 

據你觀察可否介紹當時整體香港人的生活情況?

由於當時從大陸來了很多人,故我認為當時是一個貧困的時代。當時我與辦公室裏的日本人同住在一間小屋中(只有日本人住的)。香港島方面則只有所長及事務人員住,技術人員則全部住在馬鞍山。

 

 

那時馬鞍山建有多少間教堂?這些教會組織與公司有沒有交往?

我記得當時馬鞍山只有一所教堂。我於海拔 240-270 米左右的礦坑採礦,教堂便是位於那兒附近的。而在馬鞍山的山腳處設有另一間規模頗大的教堂。我依稀記得教堂曾對公司有財政上的資助。

 

 

那時公司的收支情況是怎麼樣?

對於公司的收支狀況,我並沒有太深刻的記憶。如有需要的話,日鐵礦業株式會社的丸本先生可以搜集有關資料。

 

 

為甚麼要撤離香港?

由於事前調查過馬鞍山的有關資料,知道馬鞍山有礦石 600 萬噸,於 25 年內礦石會被全部採盡,所以便撤離了香港。我們相信現在的馬鞍山已經沒有礦石的了。

 

 

可否繼續提供進一步聯絡途徑,如公司及主辦人的名字?又可否提供進一步資料,如文件?當時的照片?

我已將有關資料全部提供了。而我記得與我在礦坑內工作的還有一位香港人潘先生,但潘先生現在身處內地。如有需要的話,可嘗試聯絡潘先生做訪問。太本先生可提供潘先生的聯絡方法。

 

 

請問當時員工的薪金與福利是如何的呢 ?

福利方面,公司提供了住屋,包括中國工人,至於如洗衣服及做飯的福利,公司亦有供給。

 

 

請問在與中國工人溝通時有沒有問題?當時有沒有聘請翻譯人員?

我與中國工人的溝通是沒有問題的。偶爾還會與中國人一起飲酒吃飯,關係尚算和睦。

 

當時亦聘有翻譯員。日鐵礦業株式會社中有一位名叫李先生的翻譯員,向工場的中國工人作翻譯,解釋工作性質。另一位是太公洋行的周先生,周先生的日語非常流利,故多向我翻譯中國礦工的情況。辦公室內亦有一位姓羅的翻譯員。

 

 

可否說一下當時的文化與習慣方面何有分歧?有沒有經歷過甚麼趣事?

從文化與習慣上而言,我明白到如果不融入礦工的生活圈內,便不能好好的完成工作,故我自己便很積極地融入大家當中。經常參與不同活動,譬如參與太公洋行的女兒婚宴及辦公室的宴會等。又常與中國人一起飲酒吃飯,和睦相處。我收到的宴會邀請咭為數也不少呢 ! 現在我亦與潘先生偶有聯絡。(潘生是與我一起在礦坑工作的香港人,現在身在中國。)

 

 

請問你於香港工作了多久?對於於香港工作的日子有甚麼感想?有沒有難忘的事?

我是由 1958 年來到馬鞍山,工作了 4 年,在 1962 年便返回日本。由於當時我一人要面對中國員工約 200 名,不依靠自己便沒有人可依靠,自問是努力工作,做好本份。

 

現今日本人在海外工作雖算是一件普通的事,但在當時的環境而言,實是十分罕有的。當時,由日本到海外旅遊絕對不是一件容易的事,而在港的日本人數目很少。



 

貴方の会社の名前は何ですか?御社はどんな業務でしたか?貴方はいつ香港に来ましたか?

会社の名前は日鉄鉱業株式会社。日鉄鉱業株式会社は、もともと日本で有名な新日鉄という会社が、分かれて新しくできた会社。新日鉄に原料(当時、主であった)石炭を供給していた。小林さんは 1958 年に香港へ来た。

 

 

御社はいつ香港で開業しましたか?どうして香港に開業しましたか?

香港事務所は昭和 28 年( 1953 年) OPEN 。技術者が来たのは 1954 年。 当時、馬鞍山には鉄の鉱石があるということを知っていたので、作業を開始した。戦後の日本は鉄が少なく、当時の日本にとって馬鞍山という鉱山はとても重要であった。トロハーバー(吐露港)に日本の1万トンの船が入って、九州にある八幡製鉄所(今の新日鉄のこと)というところへ馬鞍山で取れた原料を送った。

 

 

御社はどこで鉱産のソースを知りましたか?その時御社の鉱産を掘る技術はどうでしたか?

八幡製鉄所が日鉄鉱業に鉱山を掘ってほしいと要請した。日本岩手県の太平洋の近くにある釜石鉱山と馬鞍山は似ていたので、釜石鉱山の採掘技術者が馬鞍山に行って作業した。

 

 

東南アジアから言って、馬鞍山はその時の出産量は多い方ですか?

小林さんは中くらいだったと感じる。中堅の山ではあったが、 100 万トンという山は当時なかったので、重要だった。

 

御社の社員は何人くらいいますか?名前は?

当時の社員の数は、香港島に所長1人、事務1人、現場(掘る人)に1人、工場に1人。たまに短期的に1人追加等はあったが、原則はひとりずつ。助手がつくこともあった。社員はだいたい2年交代なので、全部となるとかなりの数になってしまって、社員の名前を思い出すのは難しい。

 

 

御社はどのように社員[鉱を掘る人]を管理しますか?組織編制はどうでしたか[例えば通勤時間等]?香港人の社員[鉱を掘る人]と日本人の管理者とどのように付き合いますか?

香港島に太公洋行という本社があり、この会社と日鉄鉱業は提携していた。そして、馬鞍山のふもとの方に鉱山長と事務員がいる事務所があって、山の真ん中あたり(事務所と採鉱課の間)に鉄鉱石の品位をグレードアップする工場(選鉱場)があった。採鉱課は山の上の方で鉱石を採掘。

 

日鉄鉱業から採鉱課や選鉱課に技術者を(2~4年の間)派遣した。小林さんは採鉱課で働いていた。当時、坑内で石を掘るという技術者が中国人にいなかったので、日本人の技術者が「ここを掘りたい(例:何月何日までに何メートル掘る)」というような設計をおこなった。中国人はそれに従って掘る作業をした。日本人はコンサルタント(その分野について相談相手になる専門家)という感じだった。

 

 

その時の馬鞍山の鉱を掘る人の生活どうでしたか?普段の生活はどうでしたか?

当時は(中国)大陸からたくさんの人が流れてきたので、香港は過密でひどい(貧乏が多い)時代だった。普段の生活は、ちゃんと家に住んで、それなりに生活していたけれど、例えば、教育の問題として。

 

今は沙田から馬鞍山に道があるけれど、その当時はまったく道がなかったので、沙田から少し行ったところにある何東楼に太公洋行のちょっとした見張り所のような場所があって、そこから 10 人乗れるかどうかくらいの小さい船が出ていた(写真参照)でも、馬鞍山に住んでいる子どもたちは香港の方の学校へ勉強に行くということがなかなか困難だった。


 

その時の香港人は全体的の生活はどうでしたか?

小林さんは馬鞍山の事務所の裏にある日本人だけが住む小屋のような家に住んでいた。香港島の方には所長と事務の人だけ住んでいて、技術者はすべて馬鞍山に住んでいた。

 

 

その時は馬鞍山にある教会はいくつありましたか?教会は会社と付き合ってましたか?

馬鞍山に小さな教会がひとつあったことを覚えている。小林さんたちは海抜 240 メートル、 270 メートルくらいのところにトンネルを掘って、採掘作業をしていたが、この付近に小さい教会がひとつあった。ほかには馬鞍山のふもとにかなり立派な教会があった。教会が財政的に助けていたのではないかと小林さんは思っている。

 

 

会社はその時の収支状況はどうでしたか?

業績、収支状況について小林さんはあまり記憶がないので、必要があれば、日鉄鉱業株式会社の丸本さんが細かい内容を調べてくれるということです。

 

 

どうして香港に「撤離」しましたか?

事前に馬鞍山をいろいろ調査し、その結果、馬鞍山には鉱石が 600 万トンある、ということがわかったので、 25 年間の間にそれをほぼ全部生産し尽くして作業を終了した。今の馬鞍山に鉱石は残っていないと思われる。

 

 

他の業務に連絡がある会社と管理者の名前を教えてくれませんか?他の資料を教えてくれませんか?例えば書類等。その時の写真を提供していただけますか?

小林さんと一緒に坑内で働いていた方が今、中国大陸にいるので、訪問は OK かどうか確認が取れたら、紹介してくれるということです。

 

資料はすべて提供しました。

 

サラリーと福利について。

 

福利としては、住む家は提供されていて、中国人のお手伝いさんのような方が身の回りの世話(洗濯してくれたり食事をつくってくれたり)をしてくれたそうです。

 

 

コミュニケーション方面は問題ありましたか?通訳はいましたか?

コミュニケーションは問題なかった。時々、中国人とお酒を飲んだり、親睦があった。通訳はいた。日鉄の会社に李さんという人がいて、工場の社員についていた。周さんは太公洋行の人で、坑内(トンネル)の小林さんについてくれて、日本語がとても上手だった。事務所にも羅さんという通訳がいた。

 

 

文化や習慣の違いはどうでしたか?おもしろいことはありましたか?

文化や習慣は、みんなの中に入っていかなければ仕事ができないので、自分から積極的にいろいろ参加した。たとえば、太公洋行社長の娘さんの結婚式や事務所の宴会に参加して、中国人と一緒に飲んだり、食べたりして仲良く過ごした。宴会等の招待状もたくさんもらった。今でもプンさんとは連絡がある。

(*プンさんは、連絡が取れたら紹介してくれるという坑内で小林さんと一緒に働いていた香港人の方です)

 

 

何年働きましたか?香港で働くことにどう思いましたか?苦しかった?なにか忘れられないことはありますか?

小林さんは 1958 年から 4 年間馬鞍山で働いた。 1962 年日本へ帰国。中国人 200 人くらいいる中で、小林さんはひとりだったので、自分しか頼ることができなかったから、努力したと思っている。当時、観光で日本から(容易に)外国へ行くというような時代ではなかったので、香港にもほとんど日本人はいなかった。今では外国で日本人が仕事をするということは普通のことだが、当時は本当に珍しいことなので、がんばって働いた。

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